2009年06月15日

ワインは最も歴史の古い酒の一つとされ

ワインは最も歴史の古い酒の一つとされ[1]、紀元前6000年頃にメソポタミアのシュメール人により初めてワインが作られたといわれる。ワインの宗教的利用も古くから始まっている。ギルガメシュ叙事詩には、古代メソポタミアで伝説的な王・ギルガメシュが大洪水に備えて箱舟を造らせた際、船大工たちにワインを振舞ったというシーンがある。紀元前5000年頃にはビールも作るようになり、紀元前3000年頃に古代エジプトに双方が伝わったとされ、ピラミッド内部の壁画にも克明に製法が記録されている。ビールの醸造の方が比較的簡単であったため、これら古代オリエント地域では、ビールを日常消費用、ワインを高級品として飲み分けていた。

その後フェニキア人により古代ギリシアへも伝わる。この頃は水割りにして飲まれていた。現代ギリシャ語でワインをοίνος(「エノロジー(oenology、ワイン醸造学)」の語源)ではなく普通κρασί(混合)と呼ぶのはこの水割りの習慣の名残である。ワインはそこから地中海沿岸に伝えられ、古代ローマへと伝わり、ローマ帝国の拡大と共にガリアなどの内陸部にも伝わっていった。ワイン製造の技術が格段の進歩を遂げたのはローマ時代においてとされ、この時代に現在の製法の基礎が確立した。
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中世ヨーロッパの時代にブドウ栽培とワイン醸造を主導したのは僧院であった。イエス・キリストがワインを指して自分の血と称したことから、ワインはキリスト教の聖餐式において重要な道具となった。ただしこの時代、ワインは儀礼として飲むものとされ、むやみに飲んで酩酊することは罪とされていた。ルネサンスの時代以降、娯楽としての飲酒が発展する。17世紀後半、醸造や保存の技術、また瓶の製造技術が向上し、ワインの生産と流通が飛躍的に拡大した。

製法 [編集]
広い意味でのワイン作りはブドウの栽培と醸造に二分できるが、ワイン産地ではワイン作りと言えば醸造(英語ではwinemaking)を指し、醸造学は英語でエノロジー(oenology/enology)と言う。これに対しブドウ栽培(英語でgrapegrowing)の技術や学問はヴィティカルチャー(viticulture)と呼ばれる。海外の大学はブドウ栽培と醸造学の両コースを持つのが普通である。

ワインの生産主体はフランスのボルドー地域においては「シャトー」、ブルゴーニュ地域においては「ドメーヌ」と呼ばれることが多い。フランス語の「シャトー」は、もとは城館をあらわす言葉であるが、ボルドー地域においては転じてぶどう園や管理場、生産者のことをも指す。主なものではシャトー・ムートン・ロートシルト、シャトー・ラフィット・ロートシルト、シャトー・マルゴー、シャトー・ラトゥールなどがある。イタリアにおける「カステッロ」、ドイツの「シュロス」、スペインの「カスティーリョ」も同様である。「ドメーヌ」は、フランス語で「土地」をあらわす語である。カリフォルニアワインなどで「エステート」という語を使っているのもドメーヌと同義である。

2009年05月29日

ストア派(ストアは、英:Stoicism)は

ヘレニズム時代に成立した哲学ないしその学派である。この派にちなむストイック(stoic)という言葉が示すように、禁欲的な思想と態度によって知られる。ヘレニズム時代以降の古代ギリシア・ローマの時代においてはアカデメイア学派、逍遥学派、エピクロス派と並んで四大学派とされていた。ストア派なる名は、ゼノンがアテナイの彩色柱廊(ストア・ポイキレ)で教授していたことにちなむと言われている[誰が?]。

とくに古代ローマの共和制末期からキリスト教を認める前までの帝政期における影響は非常に大きく、後述するように皇帝すらそれに帰依した。

アテナイでゼノンによって開かれたギリシア哲学の一派であり、徳と平静さを重んじた。その起源はエピクロス派と同時期ではあるが、より長い歴史を持ち、その教説における恒常性はより少なかった。ストア主義は犬儒学派の教説の中で最良のものを受け継ぎ、より完備して円熟した哲学となった。

ローマ時代において重要なストア主義者として名を残しているのは、奴隷エピクテトス、「哲人皇帝」として有名なローマ皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌス、大臣セネカである。ストア主義は、非道な権力に抗する際や、災難の続く事態に対峙する際の慰めとなった。

それぞれの考え方は互いに密接に関係している。

ストア派の思想については現存資料が後期に偏っているため、前期・中期の思想は明確にはわからない。したがっていくつかの断片的資料や、後期でも最も前期に近いとされるキケロ、エピクテトスの思想(ただしエピクテトス自身は著作を残さなかったことから彼の思想は弟子のアリアノスの記録による)から推測するしかない。
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自分達が善い生き方であると考えた生き方について実践することを要求する。堕落した生活は魂までをも堕落させると考える。ソクラテスの「ただ生きるのではなく、より善く、いきる」につながる考え方だと思われる。また、ストア学派はソクラテスの主知主義を継承し、徳即ち知であるとした。

ストア学派はあらゆるものは物質であるという唯物論的立場を取っており、魂すらもその例外ではない。

あらゆる感情から解放された状態を魂の安定とし、最善の状態として希求する。アパテイア(?πάθεια/apatheia、語源的にはパトスpathosに否定の接頭辞「a」が付く)と呼ばれるこの境地は賢者の到達すべき目標であるとともに、ストア学派における最高の幸福であった。当然、死に際しての恐怖や不安も克服の対象と考える。その理想としてよくソクラテスの最期が挙げられる。怒らず、悲しまず、ただ当然のこととして現実を受け入れ行動することを理想とする。

自己の命をあっさりと扱うが、人間それぞれの究極的、最終的な自由意志を全面的に尊重しているが、決して他者に対しての殺人は肯定しない。ただし当時の他の哲学と同様に敵に対して勇猛に戦うことは善とされた。(当時の世相を反映し解釈すれば至って当然)このような考え方は「魂は神から借りているだけ」という言葉に端的に表されている。(人は最終的に神からの分け御霊であるということを主張)

さらに善悪無記(アディアポラ)の思想に立てば、命は善ではなく、「望ましいもの(プロエーグメノン)」でしかないため、状況如何(四肢の切断や非常な老齢、不当な命令に従わなければならない等)によっては自殺も肯定した。

これにより人は運命を受け入れる「覚悟」が必要であることを悟る。しかし、不完全な運命を補正する自由意志により運命さえも自己の意識によって良き方向へと革新できると主張する。

2009年04月26日

日本の天皇号

日本では「大王」(おおきみ)が君主号であり、対外的には後漢、魏、南朝より倭国王として封ぜられていたが、やがて関係は途絶えた。隋が中国を統一し、対外関係を通じて国家意識が再構築される時期に「日本」の国号と前後して「天皇」号が導入され(具体的時期には諸説)、「皇帝」と同格の称号を名乗ることとなった。但しこれは国内向けであり、隋、唐への朝貢使は、天皇の使節と名乗る事もあったが、基本的には外交称号として日本国王の名代と名乗った。この点は越南や当時の朝鮮とも類似している。
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やがて、鎌倉時代になると、政治の実権は天皇ではなく、征夷大将軍源頼朝が握り、日本は貴族ではなく武士が世の中を治める事となった。その間、日中間の正式の外交貿易は行われなかったため、外交称号を用いない時期が続いた。やがて時が移り、室町時代になると、明との間で公式に貿易が行われる事となった。この時、足利義満は征夷大将軍の称号を用いたが、明はこの称号を認めなかったため、義満は日本国王の称号を用いた。これは朝廷からは「他国より王爵を得た」という批判を受けたが、日明貿易はしばらく続いた。やがて、明が対外貿易に消極的になり、日本は戦国時代に突入したため廃れていった。

江戸時代には、徳川将軍家は「日本国源秀忠」という肩書きを使用しない署名を国書に用いていた。しかし、朝鮮との外交を担当していた宗氏は独断で国書を偽造し、国書の署名を「日本国王」とした。これが柳川一件として問題視されたため、徳川は日本国大君の称号を使用する事となった。大君の称号は、やがてヨーロッパにまで伝わり、タイクーンという「実力者」や「大物」を意味する英単語となった。

明治政府は独立国の君主号を一律に「皇帝」とした。天皇も当初は対外的に「日本国皇帝」を称し、国内的にも一部で「皇帝」号を使用したが、最終的には対外的にも「天皇」と称した。

2009年04月09日

LSDは刑法各則第6章第7節

日本 [編集]
LSDは1970年より麻薬及び向精神薬取締法による取締りの対象となり、非営利目的であった場合、輸出・輸入、施用は1年以上10年以下の懲役、譲受・譲渡、所持、使用は7年以下の懲役となる。営利目的であった場合、輸出・輸入、施用は1年以上の有期懲役、情状により500万円以下の罰金を併科、譲受・譲渡、所持、使用は10年以下の懲役、情状により300万円以下の罰金を併科される[91]。

また1991年より、薬物犯罪に対する国際的な協力への対応を主な目的とし、薬物犯罪収益の剥奪等を定めた国際的な協力の下に規制薬物に係る不正行為を助長する行為等の防止を図るための麻薬及び向精神薬取締法等の特例等に関する法律の適応対象ともなった[92]。

中国 [編集]
LSDは刑法各則第6章第7節により規制されており、販売や密造や輸出入等、行為内容自体よりも取扱量により罰則が違う点に特色がある(使用に関しては行政処分はあるものの刑法上の処罰はない)。取扱量が極少量であった場合は3年以下の懲役、罰金を併科、情状により3年以上7年以下の懲役、罰金を併科となる。取扱量が少量であった場合は7年以上の懲役となり、罰金を併科される。取扱量が大量であった場合、または逮捕される際に武装して抵抗した場合、麻薬犯罪組織の首謀者または国際的麻薬犯罪組織に関わっていた場合は15年の懲役または無期懲役もしくは死刑となり、財産を没収される[93]。

アメリカ [編集]
アメリカでは連邦法や州法等、様々な法が存在するために運用は複雑であるが(例えば1967年当時、アリゾナ州の州法ではLSDの所持は1年以下の懲役もしくは1000ドル以下の罰金または併科、使用は初犯の場合は1年以下の懲役または1000ドルの罰金、累犯の場合は1年以上10年以下の懲役もしくは5000ドルの罰金または併科、売買は1年以上15年以下の懲役もしくは10000ドル以下の罰金または併科となっていた。これに対しミシシッピ州の州法では所持と製造は1回目の場合はは2年以上5年以下の懲役と2000ドル以下の罰金、2回目の場合が5年以上10年以下の懲役と2000ドル以下の罰金、3回目以上の場合は10年以上20年以下の懲役と2000ドル以下の罰金、売買は初犯の場合は5年以上10年以下の懲役と2000ドル以下の罰金、累犯の場合は終身刑、ただし売買相手が未成年者であった場合は最高で終身刑と20000ドル以下の罰金となっていた[94])、LSDは1970年に規制物質法のスケジュール1、「濫用の可能性があり、かつ医学的用途のない薬物」に分類された[95]。

イギリス [編集]
LSDは1971年薬物乱用法においてクラスAに定められている。所持は7年以下の懲役もしくは無制限の罰金、または併科となり、売買や生産は最高で終身刑もしくは無制限の罰金、または併科となる[96]。

オーストラリア [編集]
オーストラリアには連邦法や州法等、様々な法が存在するために運用は複雑であるが、LSDは薬物及び毒物の画一的分類基準においてスケジュール9、「研究用途に限定され、使用、所持、販売や譲渡、製造は一切禁止される薬物」に分類されている[97]。

カナダ [編集]
LSDは規制薬物及び物質法おいてスケジュール3に分類されている。所持、使用は3年以下の懲役、略式起訴による場合は、初犯は1000ドル以下の罰金もしくは6ヵ月以下の懲役または併科、累犯の場合は2000ドルの罰金もしくは1年以下の懲役または併科となる。施用、売買、輸出入または営利目的の所持は10年以下の懲役、略式起訴による場合は18ヵ月以下の懲役となる

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2009年03月25日

振袖いちま

『振袖いちま』(ふりそで-)は須藤真澄の漫画作品である。「月刊MOE」1990年11月号から「コミック・モエ」を経て「コミックFantasy」No.14(1995年11月)まで連載。単行本は1・2巻が1993・4年に偕成社から出版されたが未完結のままだった。2002年に装丁を新たにして全3巻でエンターブレインより出版し完結の目を見た。

偕成社版の1巻には「夢と野望の市松人形」、2巻には「愛と気合の市松人形」という副題が付いていたが、エンターブレイン版には特に付いていない。

美少女を描くことに関して独特の技法を持つ作者であるが、(「須藤真澄」の頁参照)彼女自身、美少女を主人公とした長編はほとんど描いておらず、1話完結形式か、長くても単行本1冊(『アクアリウム』等)である。そうした中で、本作は単行本3巻ではあるが、彼女の作品中、美少女を主体としたものでは異例の長さである。 また、意思を持った人形が人と会話を繰り広げるというコンセプトは当時においては非常に斬新なものであった。(他にも同様のコンセプトを持つ作品は存在するが、登場は10年以上後である。) 物語は大きな流れを持つが、基本的に一話完結の形式をとっている。笑いの要素と叙情的要素を巧に織り交ぜ、さらにはイラスト的完成度の高い画面構成によって漫画と絵本の優れた点を併せ持つひとつの娯楽作品として完成させており、物語の完結のさせかたも秀逸である。
約束の橋 チーム 赤ずきん リコニー エジンバラ さくもん コモドド モスリン べにえび エンジン オーリ センデ ジーピー シーアイ マンサク ジュエリー トニック チューナー マンデート シャン だいろ 一千一秒 大人の生活 スキーム エイハラ スラロー ロータリー ティズム シンボル オヤマ ファシリ センタ テラコッタ センシ ツール モチーフ ギョリュ モジュ 中仙道 ひわき ジャッカル ケミストリー ローズウッド トークン 一字千金 地上の星 キャップ リーフ マナスル オーソラ

須藤真澄の最高傑作と考えられても不自然ではない。
女子高生ゆきは、母に曾祖母の形見という市松人形をもらう。部屋に飾り名前をたずねると人形が「いちま」と答えた。なんとその人形は、考え、話す人形だったのだ。いちまは曾祖母のことを「お友達」と呼び、ゆきが生まれる前に亡くなっている「お友達」をしのび、小川の土手に連れて行くようゆきに頼む。すると人形は等身大の振袖の美少女に変身した。別れを告げるいちまを呼び止めて面倒をみることにしたが、ゆきはいちまの「お友達」のかなえられなかった夢を代わりにかなえたいという思いに応えるため、不平を言いながらも彼女のために尽くすのであった。やがて、ゆきも新しい「お友達」となって行くのである。

2009年03月10日

ジョルジョ・ヴァザーリが、133人芸術家の作品と生涯

ジョルジョ・ヴァザーリが、133人芸術家の作品と生涯を紹介した『画家・彫刻家・建築家列伝』(1550年)の中で、フォンテーヌブロー宮殿にある『モナ・リザ』にふれ、モデルをフランチェスコ・デル・ジョコンド("Giocondo")の妻であるとした。「モナ」は「婦人」、「リザ」は「エリザベッタ」の愛称を意味している。ちなみに、イタリア語での名称「La Gioconda」は「ジョコンド」を女性形にしたもので、ルーブル美術館でも「La Joconde」と称している。(なお、17世紀のフォンテーヌブロー宮殿の財産目録には「紗のベールをまとう宮廷婦人」とあった。)

フランチェスコは実在した裕福な人物であり、当時フィレンツェの中で政治的にも権威を持っていた。しかし、その妻であるリザ・デル・ジョコンダ(リザ・ゲラルディーニ)については1479年10月16日に生まれ、1495年にフランチェスコと結婚したことは分かっているが、それ以外はほとんど分かっていない。また当時、肖像画の服装、背景、髪型にはモデルを暗示するモチーフが盛り込まれることが一般的であったにもかかわらず、『モナ・リザ』においては服装や髪型から明確な特徴が得られず、背景にも茫漠とした風景が描かれているのみで、特定の個人を示す暗示がほとんど得られない。

このため20世紀に入って、ヴァザーリの記述に対する疑問から、絵のモデルはジョコンダではないとする異説が複数唱えられてきた。これは以下の不審な点に起因する物である。

レオナルドは通常、描く絵について大量のスケッチやメモを残しているが、この肖像画については晩年まで離さず持ち続けていたにも関わらず、何の記録も残していない(もっとも、レオナルドのノートはその3分の2が失われており記録が無い確証も無い)。
絵を描いた1503年当時、リザは24歳であり、描かれている人物はもっと年齢が高く見える。
フランチェスコの妻と書き記したヴァザーリは1511年の生まれであり、レオナルドにもリザにも会ったことがなかった。また『モナ・リザ』を実際に見てはいないと思われる。
レオナルド存命中の1517年にクルーの館を訪れた人物(ルイジ・ダラゴーナ枢機卿の秘書アントニオ・デ・ベアーティス)が、ジュリアーノ・デ・メディチの依頼によって描かれた「フィレンツェの婦人」の肖像を見たことを記述している。レオナルドは「フィレンツェの貴婦人の役目は、偉大なジュリアーノ・デ・メディチの死と共に終わった」と述べたという。
こうしたことから、20世紀に入ってモデルに関する様々な異説が唱えられるようになり、以下のような人物がモデルとして推定された。
イルカ カッション イナリー ヒンズー ケミカル ヤブラン おりあお パララ アリーナ テリア キンバ マキャベ フードル ハイファイ マイル けんち バルジ ビリティ ビスケ ボール オセロッ ロス ストップ マリン ローエン ランタナ ギブアウ キドニー コーヒー ヒヤシ ファクタ ジュレハ ショベルカ ライフ リック ドレス シーエム ガヤツリ レーン ケション ナラタ プレイ デパオク グロテ ハジャイ トリック シロシ ドット リナッ フィア

コスタンツァ・ダヴァロス … 当時ジュリアーノ・デ・メディチの愛人であったナポリ公妃。ただし1503年当時45歳で、年齢的に合わない(これはレオナルドが嘘をついたためとする意見がある)。
イサベラ・ダラゴーナ … ミラノ公妃。年齢が絵と近く、同じ構図の油絵『アラゴンのイザベラの肖像』がある。『アラゴンのイザベラの肖像』はスイスで個人が所有しており、詳細はよく分かっていない。
イザベラ・デステ … マントヴァ侯爵夫人。レオナルドのデッサンに『イザベラ・デステの肖像』がある。このデッサンは横顔であるが衣装、顔、体型が『モナ・リザ』に書かれている女性と非常によく似ている(レオナルドの手によるデッサンであるかどうかについては議論がある)。
その後もモデルに関する憶測は止まることを知らず、「この肖像画はフランチェスコ・デル・ジョコンダ、つまり男性の肖像画である」という極端な説まで現れた。

また、ベル研究所のリリアン・シュワルツ博士は、レオナルドの自画像といわれる絵と、『モナ・リザ』の顔の特徴をデジタル解析した結果に基づき、『モナ・リザ』はレオナルドの自画像であるという見解を出した。彼女のこの理論はレオナルドの自画像であると言われている絵と、『モナ・リザ』の顔の特徴をデジタル解析した結果に基づいている。両者をコンピュータを用いて合成すると、顔の特徴がほぼ完璧に一致するというのである。しかし同じ画家が描いた絵であれば癖や好みなどから特徴が似通った絵となることも多く、レオナルド自身の「全ての肖像画は画家自身の自画像に通じる」という言葉を裏付けたとも見なすこともでき、必ずしもレオナルドが『モナ・リザ』のモデルであることを証明する物ではなかった。

そんな中、ドイツのハイデルベルク大学図書館は、2008年1月14日、『モナ・リザ』のモデルが、フィレンツェの商人の妻・リザであることを裏付ける文献が見つかったことを明らかにした。1477年に印刷された所蔵古書の欄外にフィレンツェの役人による「レオナルドは今、リザ・デル・ジョコンダの肖像を描いている」という書き込みがあった。この書き込みは1503年10月になされ、レオナルドが『モナ・リザ』を描いていた時期と重なり、ヴァザーリの記事が裏付けられたことになる。これにより、モデルにまつわる論争には一応終止符が打たれたという見方が有力であるが、それならばなぜすぐに依頼主に引き渡されなかったのかなど、依然として疑問が残る。

その他
モナ・リザの左右のまなざしは若干ずれており、右目が正面を向いているのに対して左目はやや左を向いている。また、モナ・リザをX線にかけたところ、レオナルドは、最初に描いた「まなざし」の上に少なくとも一回以上異なった「まなざし」を上塗りしたことが分かっている[4]。
この絵があまりにも突出していたため、ダダイストやシュルレアリストたちは、この絵を変更したり、この絵をネタにした風刺画などを数多く制作した。例えば、マルセル・デュシャンは女性の顔にひげを付け加えた『L.H.O.O.Q.』と題した絵を作り、アンディー・ウォーホルはコラージュしたポスターを作成した。デュシャンはさらに、自分の個展の招待状に『モナ・リザ』の複製画を載せ、『L.H.O.O.Q. ひげ剃り後』とタイトルを付けている。
ギネスブックはこの絵を最も多額の保険がかけられた絵画として登録している。『モナ・リザ』がフランスから持ち出されたのは2度のみで、そのうち日本、ロシアと巡回展示された際には、50億円の盗難保険がかけられた。
『モナ・リザ』に描かれている女性には眉毛が書かれていないことがよく指摘され、眉毛は修復の際に消えてしまったという説や、ダヴィンチは元から眉毛を書いておらず、それゆえに絵が未完成であるという主張などが論じられてきた。しかし2007年にフランズの技術者、パスカル・コットによる高解像度カメラの分析によって眉の跡が確認された[1][5]。コットは、モナリザの目の周囲に亀裂があることから、修復やクリーニングの際に眉毛やまつげを一緒に拭き取ってしまったと推測している。
2005年3月26日に日本テレビで放送された『ビートたけしのモナ・リザはもう一枚あった!』において、スイス・ジュネーブの地下金庫に眠っていたもう一枚の『モナ・リザ』が初公開された。そのもう一枚の『モナ・リザ』はX線写真監査でレオナルドの時代に描かれたことが判明し、現在さらに詳しい調査が行われている。正式発表は番組放送時から数ヶ月後にあるというが、2007年11月現在、未だにその発表は行われていない。
夏目漱石は『永日小品』に所収されている短編『モナリサ』にてこの絵を扱っている。作中での絵の扱いは「気味の悪い顔」、「縁起の悪い画」という何とも冷ややかなものである。
1950年6月10日、ナット・キング・コールがバラード『モナ・リザ』をこの絵に捧げた歌として発売。300万枚の売り上げを作る。

2009年02月22日

内丹術(ないたんじゅつ)

内丹術(ないたんじゅつ)とは、中国の錬金術である煉丹術の考え方において、人体内で呼吸法により息をふいごとし気を丹田を練って仙丹にし、服用して不老不死の仙人となる道教の修行法である。これに対して、実際に炉などで丹(水銀)を使う方法を外丹術という。内丹法、外丹法とも言い、単に内丹、外丹とも言う。
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仙丹である内丹を錬養(煉養)するにあたって、運動ではなく座るなどの静功で、異性と直接性交しない清修で、意識の「性」と肉体の「命」をともに修行する性命双修をおこなう。なお男女でそれぞれ男丹・女丹と修行法などが異なっている。

また文息、武息などの呼吸により気をめぐらし小周天、大周天などで練って丹とするという。

基本的には結跏趺坐で脊柱を上へ伸ばし、命門を開き、臍下に手を重ね置くスタイルを取る。この際、内視(半眼微笑で丹田を内側から見下ろす)を行うことや、男性は左手を、女性は右手を上に重ねておくなどといった細かい要訣がある。

内丹術の基本的な段階は、「築基」「煉精化気」「煉気化神」「煉神還虚」「還虚合道」の5段階である。内丹術の要素は「精」「気」「神」(意識)の三つで、これを自分の体内で練成して、次第に肉体(性)と意識(命)の双方を練り挙げていく。これが「性命双修」であり、内丹法は「肉体」と「意識」の双方を煉り、高めていくことなのである。

最終的には「意識」(神)を体外に出して、タオ(道)と同一になることを目的とする。ただ、その為にはまず肉体の煉成および清浄化が必要であり、繰り返し修練することによって、やがて次の段階として「意識」(神)の清浄化がはじまる。「意識」(神)の清浄化が完成に近づけば、やがて自然に「意識=神」の体外離脱が可能になる。

内丹術ではこの過程を最初「精・気・神」の三つから「気・神」の二つに化し(「煉精化気」)、次の段階で「気・神」の二つを煉って「神」に化し(「煉気化神」)、さらに最後に「神」を煉って「〇」にしていく(「煉神還虚」)。「三を二にし、二を一にし、一を〇にする」のが内丹法だと称される所以である。

「煉精化気」の中心行法が「小周天」であり、「煉気化神」の中心行法が「大周天」である。これらの行法を通じて「眞気発動」(熱や光の発生)、「僻穀」(過少食)、「過少睡眠」、「胎息」(体内呼吸・口鼻での呼吸は消える)といった「験」が自分の肉体に現れ、「大薬」の発生によって「丹」を作る。この「丹」は順次、下腹部、胸、脳の三つの部分に形成され、それが「内丹」となる。

「内丹」に対して、さらに意念をかけ煉成していくと、「聖胎」が体内に誕生し、さらに「神」(意識)を煉成していき清浄化が進むと、この「聖胎」は体外へ離脱する時を迎える。

本来では意念を使わず、入静状態の中で僅かに丹田を診る(聞く)のみだが、近代にはイメージ等を使って功を早める方法をとる流派が多く誕生している。しかしイメージ等を使う場合は偏差になる危険性が多く、伝統的流派では否定されている。

2009年02月05日

カイン・R・ハインライン (Kain・R・Heinlein)

カインはアメリカ・セカンドサウス内の貧民街で最も酷い地区に生まれた。既に親は亡く、唯一の肉親は姉であった。姉の名前はメアリーといい、後にギース・ハワードの妻となり、息子のロック・ハワードを産む。カインとの対戦前のデモでメアリーの肖像画が現れるが、彼女は整った顔立ちの女性であることが分かる。
アビランド ケイソ グズア 月の宿 トラム 太鼓判 バロイ ガリウム ジョーカー スーパー プチブ ダムウェ フット チルドレン シーズン ポインセ キッチン メンチ ナラティブ 河童大王 アービト キャリア カララー ダブルシン ガッツ カフス ビジョン デバイ マスゲ シェード ナル 華麗 プロジェト スタート スタンド ハノー リアリ スヌーピ アオザイ フォトメ ビンバ シネコン スローガン ライン センナ ハイマツ アコード フォカマイ スコア ケブキ

カインが生活していた地区では、生きるための糧となるものは金と力であった。カインは小さな体で戦いを続け、ストリートファイトで僅かな金を手に入れながら生き抜いてきた。

19年前、セカンドサウスのスラム街で暮らしていた頃に、カインが唯一「親友」と呼べる存在がいた。「アベル・キャメロン」という少年であった。カインもアベルも、お互いに孤児であった頃に出会った。寝食を共にし、どんな時でもお互いに助け合ってきた2人は、お互いを理解しあうほどの仲となった。

ある日、カインとアベルは、自分たちと同年代の子供が、チンピラたちに撲殺されるのを目撃した。2人は、死んだ子供を埋葬すると、カインはアベルに対して、「戦わずして朽ち果てたくない。いつかここを抜け出して全てを手に入れてやる」と宣言し、アベルにも一緒に来てほしいと呼びかける。カインは、全てを手に入れる力を得るためにも、アベルの助けが必要であるとも話した。アベルはカインに同意し、2人の間に固い絆が結ばれた。

カインが8歳のとき、ストリートファイト中のカインの姿が、その場を偶然通りかかったファミリー(秘密結社)のドン・パパスの目に止まった。カインは自身の強さをドン・パパスに買われて、以後ファミリーの一員となるのであった。そして、組織内で権力を強めていったカインは、いつしかドン・パパスを追い落とし、組織のボスにまで登りつめたのであった。

カインはいつしか、こう考えるようになった。セカンドサウスには、生きた目を持つ人間がいないこと、そこでセカンドサウスを独立化させ、力で力を統率する世界を創りだすこと。真の意味での自由を、セカンドサウスにもたらすことである。弱者に対して寛容すぎる社会に未来は無いこと、何の目的も持たず、惰性に過ごす無力な人間を、「生きる」ということに対して真摯に立ち向かわせために駆逐すること、血で血を洗い、争い合うことの中にこそ人間の真実があることをカインは悟るのであった。カインのこのような考えは、幼い頃の生活が大きな原因であり、彼の行動原理となった。

『餓狼 MARK OF THE WOLVES』(以下『MOW』と表記)の出現デモでは、何の理想も持たず、惰性に生きる者を嫌い、排除し、セカンドサウスを自分の理想の世界に創りあげることをプレイヤーに語る。プレイヤーに敗れた後は、その強さを認めるも、その後まもなく建物が崩壊し、カイン自身も姿を消す。ちなみに牙刀のエンディングでは、カインにとどめを刺そうとする牙刀を、彼の父親が襲撃し、「(カインを)ここで死なせるのは惜しい」として、カインを助けてどこかへ立ち去ってゆく。

ロックのエンディングでは、カインはロックに対して「ギースの死後に、彼の遺書が発見された」「君の母親(メアリー)は生きている」という趣旨の話を聞かせており、ロックをどこかに連れていく。

自身のエンディングでは、カインの存在を目障りに感じて排除しようとしていた組織の人間の元に、グラントとともに強襲する。

現在のカインの容貌は面長の顔に長い金髪で、全体を白を基調とした洋装で身を包んでいる。身に着けている上着はマントのように長い。一人称は「私」だが、グラント(アベル)との会話では「俺」に変わる。

名前の由来は、旧約聖書創世記の登場人物カインより。

ゲーム上の特徴
『MOW』の最終ボスとして登場。対CPU戦にて、グラント戦前に条件を満たすと、グラント撃破後にカインが最後の相手として登場する。このカインを倒すことで、使用キャラクターごとの個別のエンディングを見ることができる。

格闘スタイルが「暗黒真空拳」となっているが、これがどのようなものなのかは不明。

通常技は、近距離立ち強パンチを除いて、近距離と遠距離の区別が無い。必殺技は青白い炎を纏わせる技を持つ。飛び道具の「シュワルツフレイム」は、射出すると同時に後方に飛び上がる分、反撃を受けにくい。「シュワルツランツェ」をブレーキングしてガードさせると、カイン側が圧倒的に有利になる。T.O.P状態でこの技を全段当てたときの威力の高さはかなりのものである。

超必殺技は、2つともガードクラッシュ値が高く、相手の攻撃と相打ちになっても発動するため、全キャラクターの中でも使いやすいものとなっている。

グラントと同様に、隠しコマンドやルーレットで使用可能。

技の解説
カインの技名にはドイツ語が使われている。

投げ技
シュワルツモーント 
語源はschwarz mond、ドイツ語で黒い月。
相手を掴んで、後方転回しながら炎を吹き出して蹴り飛ばす。カインの通常投げは、全キャラクター中で最も高い威力を持ち、相手を画面端に追い詰めた状態で決めれば追撃が可能。

必殺技
カインの必殺技は、T.O.Pアタックと超必殺技を除いてタメコマンドである。

シュワルツフレイム
語源はschwarz flamme(炎)。ただしフレイムは発音からすると英語のflameの可能性もある。
後ろに小さく跳ねつつ、弱は水平に、強は斜め上前方へ炎を放つ。後方へ跳ね上がる分反撃を受けにくく、特に強は飛んでくる相手に対する牽制にもなる。
シュワルツパンツァー
語源はschwarz panzer(戦車、鎧)
炎を出して体に纏いつつ、前方へ突進していく。ブレーキング対応技であり、弱は弱攻撃からでも連続技になる。強は突進力に優れており、遠距離から出せばガードされても隙を減らすことができる。
シュワルツランツェ
語源はschwarz lanze(槍)
炎を吹き上げつつ、片足を斜め上に突き出しながら飛び上がり、上昇しきったところで斜め下へ炎を放ち、カイン本体は降下していく。出際が無敵状態であり、攻撃判定の大きさにも優れているため、反撃手段や対空迎撃に活用できる。
「シュワルツパンツァー」と同様にブレーキング対応技である。この技をブレーキングすると、技自体が非常に早く終了し、ブレーキングしたところで相手にガードさせると、カイン側が相手よりも早く行動可能となる。
シュワルツ・シュトゥース
語源はschwarz schutze(狙撃手)
T.O.Pアタック。炎を身に纏いつつ、横蹴りを放ちながら水平方向に突進していく。蹴りのリーチも突進距離もかなり長いが、技の隙も大きい。

超必殺技・潜在能力
ヒムリッシュ・アーテム
語源はhimmlisch atem (天からの息吹)
その場で片手を天にかざし、勢い良く振り下ろすと、自分の前方上から真下に向かって光り輝く大きな気弾を落下させる。潜在能力版は、気弾を3発落とす。ただし、相手の攻撃と相打ちになった場合、落ちてくる気弾は1発のみ。
コマンドが完成すれば、相手の攻撃と相打ちになったとしても気弾は必ず落ちてくる。ガードクラッシュ値も高く、とりわけ潜在能力版は、3発ともガードさせれば、グリフォンマスクやグラントのT.O.Pアタックを超える。さらに、ガードさせた場合はカイン側が先に動くことができ、ジャンプ攻撃からさらに地上の攻撃にもつなげてガードさせ、ガードクラッシュを誘発するということもできる。
ヒムリッシュ・ゼーレ
語源はhimmlisch seele (神々しい魂)
両腕を構えてから、光り輝く気の塊を前方へ撃ち放つ。気の塊は複数ヒットする。超必殺技版は、画面端まで飛んでいかない。潜在能力版は、気の塊の色が黄金になり、超必殺技版よりもさらに遅い弾速で、波を描くように飛んでいく。ヒット数の増加だけでなく、与えるダメージやガードクラッシュ値も大幅に上がる。
この技は、通常投げの「シュワルツモーント」を画面端の相手に決めたときに潜在能力版を出すことで、その真価を発揮する。

2009年01月21日

メアリー1世

メアリー1世(Mary I, Mary Tudor,1516年2月18日 - 1558年11月17日)は、イングランドとアイルランドの女王(在位:1553年7月19日 - 1558年11月17日)。ヘンリー8世と最初の王妃キャサリン・オブ・アラゴン(カスティーリャ女王イサベル1世とアラゴン王フェルナンド2世の娘)との娘として、グリニッジ宮殿で生まれた。

王妃キャサリンは5度の懐妊に失敗していたが、6度目の懐妊で無事メアリーを出産した。メアリーの名は、叔母サフォーク公爵夫人メアリー王女(ヘンリー7世の末子)にちなんだ名であった。

当初は男児出生を切望していたヘンリー8世も、娘が健康であると知ると、「イングランドでは女子の王位継承を妨げる法はない」として、跡継ぎと見なし、鍾愛した。実際フランスにはサリカ法のように王女の即位を禁じる法律があったが、イングランドにはなかった。

1525年、ヘンリー8世は庶子であるヘンリー・フィッツロイ(Henry FitzRoy, 1519年 - 1536年)をリッチモンド公爵にしている。この爵位はヘンリー8世の父ヘンリー7世の即位前の称号である(ただし伯爵だった)。一方メアリーにはプリンセス・オブ・ウェールズ(この場合はプリンス・オブ・ウェールズに相当する世継ぎの王女の地位)の地位が与えられた。

しかしヘンリー8世がアン・ブーリンとの再婚のためにキャサリン・オブ・アラゴンと離婚すると、王女および皇太女の地位は剥奪され、庶子となった。ヘンリー8世はメアリーに「両親の結婚は間違いだった」と認めさせようとしたが、拒否された。

やがてアン・ブーリンが第2王女エリザベスを出産すると、メアリーに対して臣従を命じたが、メアリーは「妹としては認めるが、王女としては認めない」と返答した。

激怒したアン・ブーリンは、メアリーを強引にエリザベスの侍女におとしめた。アンが王妃の地位にいる間、父ヘンリー8世はエリザベスに会っても、メアリーとの面会は拒否した。さらにアン・ブーリンは、わが子の地位の安定のためにメアリーの暗殺を企てた、とも言われている[要出典]。メアリーがヘンリー8世と再会したのは、第3王妃ジェーン・シーモアの時代になってからだった。

1546年、王位継承法が改正され、メアリーは異母弟エドワード(エドワード6世)の次に王位につく資格が与えられた。しかし庶子か王女であるかの判定は、曖昧なままで置かれた。

異母弟のエドワード6世が1553年に15歳で早世(7月6日)すると、ジョン・ダドリー (初代ノーサンバランド公) が直前に自分の息子と結婚させたジェーン・グレイを擁立するが、公爵方はメアリーの身柄拘束に失敗してしまう。7月10日にジェーン・グレイはロンドン塔に入城し、その王位が宣言されるものの、メアリーがノーリッジで即位宣言(7月13日)すると支持者が続々と集結し、同19日には枢密院もメアリー支持を表明してロンドンでもメアリーの即位宣言が行われ、ノーサンバランド公は身柄を拘束されて、大逆罪で処刑された。こうしてメアリーは事実上イングランドで最初の女王となった。この時は、民衆にも歓迎されており、またメアリーが即位できたのも民衆の蜂起のためである。民衆が蜂起したのは、ヘンリー8世の遺言では王位継承順がエドワード、メアリー、エリザベス(以上ヘンリー8世の子)、レディ・ジェーン(ヘンリーの妹の孫)となっていたにもかかわらず、エドワードの異母姉2人を差し置いてジェーンが指名されたことと、ジョン・ダドリーの傀儡であることが明らかだったためである。

宗教政策
熱心なカトリック信者であるメアリー1世は、父ヘンリー8世以来の宗教改革を覆し、カトリックに復帰した。(とはいえ、教会の資産を回復することはできなかった)。

フェリペ2世との結婚
スペイン王家の血を引くメアリーは、結婚の相手にスペインの王太子フェリペ(従兄に当たる神聖ローマ皇帝カール5世の子、後のスペイン王フェリペ2世)を選んだ。しかし、カトリック国であるスペインの王太子との結婚は反対するものが多く、トマス・ワイアットらがケントで蜂起する事態となったが、反乱は失敗しトマスは処刑された。この時も、またこの後起きる反乱もすべてエリザベスを王位につけることを要求している。

メアリーは反対を押し切り、1554年7月20日にフェリペと結婚した。1556年にフェリペはスペインに帰国してフェリペ2世として即位し、1年半後にロンドンに戻ったものの、わずか3ヶ月後には再びスペインに帰国した。このことにより、イングランドはフランスとスペインの戦争に巻き込まれ、フランスに敗れて大陸に有していた唯一の領土カレーを失うことになった。

フェリペ2世との結婚後、懐妊と思われた状況もあったが、想像妊娠であった上、実は卵巣腫瘍が発病していた模様で、妊娠と思われたのはその症状であったと推測されている。

メアリーは異母妹エリザベスを、母キャサリン・オブ・アラゴンを離婚に追いやった女の娘として、終生憎み続けた。死の前日にようやく自分の後継者として指名するほどだった。

メアリー1世は5年余りの在位の後、卵巣腫瘍により1558年11月17日にセント・ジェームズ宮殿で亡くなった。メアリーの命日はその後200年間、圧政から解放された祝日として祝われた。

修正主義による再評価
近年、ピューリタン寄りでリベラルな従来の歴史観を批判する修正主義によって、メアリー治世への極度に否定的な見方は緩みつつある。彼女の治世は極端なまでの非難を浴びてきたが、新しい角度からの視点では次のように評価される。

まず宗教改革はエドワード6世時代には一般社会には浸透せず、イングランドの実質的なプロテスタント化はエリザベス1世時代以後に進んでいったものと言われる。エドワード崩御時点では、教養ある貴族・ジェントリ階層は伝統的な宗教慣習に強い愛着を示し、一般民衆と彼らを教導する教区の聖職者も、プロテスタントの革命的な改革やその教義を理解しなかった。このためカトリックへの復帰はさしたる抵抗なく行われたといえる。メアリーの治世がもし長ければ、イングランドがプロテスタント国家にならなかった可能性は高い。

フェリペとの結婚はスペインへの属国化を招きかねなかったと非難される。しかし当時テューダー家の血を引く者のほとんどが女性であり、また国内貴族との結婚も貴族間の派閥争いを生む恐れから憚られ、やむなくフェリペを選んだという事情があった。結婚時の取り決めでも、フェリペと先妻との間の子にイングランド王位の継承資格は認めず、フェリペのイングランド共同統治者の資格もメアリーとの結婚期間のみと定められるなど、イングランドの独立性を考慮したと指摘される。
ヤーダ ひまわり ヘンチック ロミア シロタ イングラ カフジ はばたけ チンナカ テライト オーツ インチ ウバナ ミクロン スカウト ドットコム ティアラ きょうせい ニードル シュート ヒュー パート フラッ バタフライ メイド ケミカ 大葉春菊 一寸法師 ポリス ギアナ ニガナ リルフール フィック バネー ビー玉流し ダンディ インプット らんぐい ムール ものう ユニーク ムベ ジップア のぎつね ロッテル モヘンジ ハウス タンドー ブロージ リグニン

だが彼女の治世は短命に終わり、さらに子供を残せなかったことで、妹エリザベスの次期後継は事実上決定していた。

クイーン・メアリー
クイーン・メアリー(Queen Mary)は他に3人がほぼ同時代に存在する。

メアリー・オブ・ギーズ:スコットランド王ジェームズ5世の妃で女王メアリー・ステュアートの母
メアリー・ステュアート:スコットランド女王
メアリー・テューダー:フランス王ルイ12世の妃。本項のメアリー1世の叔母。
メアリー女王、メアリー1世に限っても2人、メアリー・テューダーに限っても2人が存在することになる。

2009年01月14日

墨子(ぼくし、生没年不詳、紀元前450?390頃?)

墨子(ぼくし、生没年不詳、紀元前450?390頃?)は中国戦国時代の思想家。あるいはその著書名。墨家の始祖。一切の差別が無い博愛主義(兼愛)を説いて全国を遊説した。いわゆる墨子十大主張を主に説いたことで世に知られている。諱は翟(羽の下に隹)という。

最初、儒学を学ぶも、儒学の仁の思想を差別愛であるとして満足せず、独自の学問を切り開き、墨家集団と呼ばれる学派を築くに至った。

生誕地は魯であると思われる。墨(ぼく)という名前から、墨(すみ)を頻繁に使う工匠、あるいは入れ墨をした囚人であった、などの諸説が生まれたが、詳しいことは全くわかっていない。司馬遷の史記・孟子荀卿列伝における墨子についての記述でも、「蓋し墨子は宋の大夫なり」(恐らく墨子は宋の高官であろう)などと憶測の文章になっている。前漢代から早くも謎多き人物であったようである。ちなみにかなりの学があったようであるから、卑しい身分の家柄の出身では無かった可能性が高い。当時は、学問するにも書物を読むにも相応の家柄でなければ出来なかったからである。

著書
著書『墨子』(53篇現存)は墨子本人やその弟子の思想を記した書物。大部分は墨子本人による記述ではなく、その弟子によって編まれたとみられる。一部が散逸しており、元の姿は無い。近年の先秦時代由来の出土文献と比べることで、墨家集団消滅(後述)以来、清代末までほとんど編集の手が加えられてこなかった事が伺える。

第一構成 「親士」「修身」「所染」「法義」「七患」「辞過」「三弁」
断想集。
第二構成 「尚賢」「尚同」「兼愛」「非攻」「節用」「節葬」「天志」「明鬼」「非楽」「非命」「非儒」
「十論」。墨子の主要論考。
第三構成 「経上」「経下」「経説上」「経説下」「大取」「小取」
「墨弁」。墨子の哲学、幾何学等を記した論文集。
第四構成 「耕柱」「貴義」「公孟」「魯問」「公輸」
言行録、説話集。
第五構成 「備城門」「備高臨」「備梯」「備水」「備突」「備穴」「備蛾傅」「迎敵祠」「旗織」「号令」「雑守」他に散逸して編名が分からないもの10編
城(すなわち市街地)を守る為の詳細かつ具体的な技術論集。

主な思想

主な思想は以下のとおりである。兼愛・非攻のような非常に理想主義的な思想を展開する墨子は、当時勢力の拡大に躍起になっていた諸侯の考え方とは相容れず、諸侯からは敬遠されがちであったことが、墨子の多くの編から読み取ることが出来る。

兼愛
「天下の利益」は平等思想から生まれ、「天下の損害」は差別から起こるという思想。全ての人に平等な愛をということである。
ドリーム ミリバ すぐき菜 ちそう パンプ ハーフ カバー しゃるどね リニュ バイオ カリソウ ノータック キシャー スモー スンドゥ ずっき じゅんか チンチラ ブタジ カーネ ロゴ チェック アクシオン ロメン 銀色の雨 マスタ ミーゴー パエリ きんあか ディン ワスプ ハロー ジスト パレード たーつぁい オテコ オープン たまりん ジャグ メラノ カーコン ツガWEB アプリ オービタル ハーフ ナビ夕立 エスアイ つくし プレイシ ハイブ

非攻
一言で言えば、非戦論である。墨子直著と見られ、「人一人を殺せば死刑なのに、なぜ百万人を殺した将軍が勲章をもらうのか!」と絶叫している。

墨子、および墨家の全体像
墨子と弟子とのやりとりからは、功利主義的な多くの弟子を諭すのに苦労する墨子の姿が散見される。また、墨子自ら楚に赴いて、宋を攻めようとする楚王を説き伏せようと努力することもあった[2]。このような幾多の墨子の努力の甲斐有って、思想集団として、また、兼愛・非攻の究極の実践形と言える防御・守城の技術者集団として、墨家は儒学と並び称される程の学派となった[3][4]。

墨子の没後、墨家集団は三墨と呼称される三つの集団に分裂するも、未だ大勢力を誇るが[3]、秦帝国成立後、突如として各種文献から墨家集団の記述は無くなり、歴史上から消えてしまった。なぜ墨家は忽然と消えてしまったのか。焚書坑儒の言葉に代表される秦帝国の思想統制政策により、集団として強固な結束をもっていた墨家は儒学者その他の思想派よりも早く一網打尽にされ、一気に消滅したと思われる。 さらに漢代になると、墨家と激しく対立していた儒家が一大勢力となった為、墨家思想排斥の動きが加速したであろうことは想像に難くない。

その後、墨子の思想は中国でほとんど顧みられる事が無く、清代まで時代が下る。清末の動乱期になって西洋文明を積極的に摂取していく動きが中国に広がる中で、墨子の思想はキリスト教の思想に酷似しているとの見地から再研究を始める学者が徐々に現れ始めた。その代表的な学者に孫詒譲がいる。かれら清末の学者らによって、墨子の思想は2000年以上の雌伏を経て再評価されるようになった。

逸話
楚の王は伝説的な大工公輸盤の開発した新兵器、雲梯(攻城用のはしご)を用いて、宋を併呑しようと画策する。それを聞きつけた墨子は早速楚に赴いて、公輸盤と楚王に宋を攻めないように迫る。宋を攻めることの非を責められ困った楚王は、「墨子先生が公輸盤と机上において模擬攻城戦を行い、墨子先生がそれで守りきったなら宋を攻めるのは白紙にしましょう」と提案する。机上模擬戦の結果、墨子は公輸盤の攻撃をことごとく撃退し、しかも手ごまにはまだまだ余裕が有った。王の面前で面子を潰された公輸盤は、「自分には更なる秘策が有るが、ここでは言わないでおきましょう」と意味深な言葉を口にする。すかさず墨子は「秘策とは、私をこの場で殺してしまおうということでしょうが、すでに秘策を授けた弟子300人を宋に派遣してあるので、私が殺されても弟子達が必ず宋を守ってみせます」と再び公輸盤をやりこめた。そのやりとりを見て感嘆した楚王は、宋を攻めないことを墨子に誓った。使命を終えた帰り道、宋の城門の軒先で雨宿りをしていた墨子は、乞食と勘違いされて城兵に追い払われてしまった。墨子の御技は、救われた宋人にもわからない程の素早さであった[2] この逸話から「自説を頑なに守る」という意味の「墨守」という故事成語が生まれた。
2004年に当時の小泉純一郎首相が、イラクへの自衛隊派遣に関する国会論争において墨子を引用して自説を主張した。